ライ麦畑でつかまえて - J・D・サリンジャー(1951)

 『ライ麦畑でつかまえて』は、勿論良い意味での、有り触れた物語である。だからこそ多くの共感を呼び、長らく皆に愛される小説なのだと、おれは考えている。

 物語の随所に、語り手であり、主人公であるホールデンの心情吐露が見られる。それは、汚れた大人社会への反骨精神に感じるが、実際は、自己同一性(アイデンティティ)の形成に付随する苦悩であると、おれには感じられた。

 ホールデンは「純粋なだけ」の青年だったのだ。それは、フィービーや子供たちといった純粋な存在だけを愛し、それ以外をインチキと忌み嫌っているところからも汲み取れる。しかし、純粋なだけでは社会で生きていくことは不可能である。その純粋さはいつか失わなければならない。だが、純粋なだけのホールデンにとって、それは自己同一性の消失と同義である。そこに、彼の葛藤とジレンマがあるのだ。

 ホールデンは、口では大人たちを罵倒しながら、実際には反抗などしていない。彼の行動は、ただの破滅である。ホールデンは、純粋さを貫き通し大人社会へ反抗することも、純粋さを捨てて社会と折り合いを付けることも出来なかったのだ。そして、そこに生じる苛立ちが、彼を破滅的な行動へと駆り立てるのだ。

 しかし、物語の終盤で、フィービーと共に動物園へ訪れたホールデンは、回転木馬に乗ったフィービーを眺めて、強い幸福感を覚える。

 これは、自己同一性の芽生えを意味するのだろう。恐らく、ライ麦畑の捕まえ役などと言い出した時から兆候はあったのだろうが、フィービーの姿が後押しとなり、ホールデンには強い幸福感と共に、自己同一性が芽生えたのだ。考えてみれば、「ライ麦畑の捕まえ役になりたい」というのは、「自分は何になりたいか」ということであり、その欲求の先にあるものは、明確な自己同一性である。

 自己同一性というものは、多くは成長と共に獲得するものだが、たまにはその形成に失敗してしまったり、余りにも悩み続けて、結果的にホールデンのように破滅的行動に走ってしまう人もいる。そうでなくとも、その形成には多少の葛藤は必要なのだ。それこそが、この作品が有り触れた物語であり、多くの共感を呼び、長らく皆に愛される理由だろう。