ソナチネ - 北野武(1993)

 『ソナチネ』は、物語よりも、思想が際立った印象の映画だった。まるで暴力の本質を曝け出すようなバイオレンスシーンには、思わず呼吸も忘れて見入ってしまったが、それさえも、監督の思想に基いていると感じた。映画の序盤で、村川は一人の男を溺死させるのだが、「沈めたら何分くらい保つかなあ」と、まるで遊んでいるかのような印象だった。この場面から分かる通り、この映画では、簡単に人が死ぬ。しかし、それはただ死を軽々しく扱っているというわけではないだろう。ここには、監督の死生観が現れていると感じた。映画の中盤、銃撃戦のあとに、それによって死んだ人間の、死体をただ映すという場面があるのだが、そのシーンに、おれは「死とは見ることしかできない」という思想を感じた。人は、死を見ることしかできない。何故なら、死んだことのある人間など居ないからだ。

 『ソナチネ』で、解釈が分かれるのは、やはり村川の自殺だろう。これはどこかで読んだことなのが、監督は村川の自殺について「特に意味はない」と発言したらしい。これは、何も本当に意味がないわけではなく、特に意味はなく自殺したことに、意味があると考える。そもそも、この映画では簡単に人が死ぬ。それは村川も同じことだ。村川だけが特別扱いされることなどはない。銃撃戦で死んだヤクザ達も、裏切りによって射殺された仲間達も、すべては同じなのだ。ここには、再び監督の死生観が現れていると感じる。死とは、見ることしかできない。ならば、そこには意味や理由などを付与するべきではない。だから、この映画では、大した意味もなく、人が、村川が死ぬのではないだろうか。おれは、そう考える。